くにたまの会

由緒・沿革

【幡屋神社】
式外の社、風土記所載の社
創立年代は不詳であるが、神代において、天孫瓊々藝尊の降臨の際、五伴緒の神の内、太玉命の率いられた後裔忌部氏の一族がこの幡屋(機殿とか幡箭とか書いた時がある。出雲風土記には幡箭山と記されている)に止まって織布を職としていた。(近くに高麻山があるー植麻した山)これが瓊々藝尊を斎い奉ったのがはじめであり、今日に至っている。(社の近くに古機、御機谷、神機谷、広機、長機等の地名がいまもなお残っており、この神機谷に前記五伴緒の神を奉斎した五人若宮神社がある。)
瓊々藝尊は天津日嗣の大君にましますので、これに伴える氏人等は機職として織布を献上した。この縁りをもって歴代の御尊崇が篤く称徳天皇の神護景雲3年に天下諸社に神服をご下賜されたとき、この幡屋神社がふくまれていたことが出雲風土記解で明である。
創立は宮内谷「イナサカ谷」に鎮斎されていた。鎌倉時代に武門が政権を握るようになったので、宝暦14年山城國佐女牛八幡宮の御分霊を正八幡宮と称えて「宮の谷」に奉斎した。出雲風土記考によると
「幡屋社 幡屋若宮大明神 古はイナサカ谷に御社ありしも今は幡屋八幡の社内に移せり」
とある。これによると「イナサカ谷」から正八幡宮の境内に奉遷し、氏神を二社として崇敬していたものと考えられる。
明治4年幡屋神社が村社に列格と同時に正八幡宮を摂社とし、明治44年許可をうけて幡屋神社に正八幡宮を合祭神として合祀し、大正8年郷社に昇格したのである。たまたま昭和38年6月の霖雨により境内が崩漬し、御社殿倒壊の危惧を感じたので、本殿、幣殿のみを残し、他の建物を取り除いて保菅し、神社本庁の承認を得て昭和41年に前記「出雲風土記考」による創立鎮斎の地という朝日たださし、夕日かがやく「イナサカ谷」の地に復帰移転のご遷座をしたのである。
古社には必ずといってよいほど「神宮寺」があるが、当社も一堂の神宮寺があった。明治5年まで十五間~二間の堂宇があったが、神仏分離の令達により仏体はすべて社家で保管し、建物は取り除いた。現在三畝余(100平米)の土地を残すのみである。
朝廷及び國守の崇敬については前記のとおり神服のご下賜をはじめとして國守は耕作田の寄進、尼子経久公は宝鏡一面づつを神社と神宮寺へ寄進、宍道備前守政慶は神社へ一面を寄進、いづれも現に社宝として保管してある。その他松江藩主の代参と神事相撲等についてはいろいろの記録があり、これによると、官民あげての崇敬が厚かったことが推測されるのである。又藩主代参の際しいの木の大木を「お留木」と称して伐採を固く禁ぜられており、それが殆んど中途で古損木として倒伏し唯一本(胴まわり22尺―6・7米)現存したが移転遷座の際売却して経費に充当した。
なお旧社地(幡屋山)は飛地境内地として保存しているが「幡屋村神社差出帳」に「船石 従神前北に当って五十間計り相隔り船石在り云々八幡宮此船に乗って山城国より御影向」「船子石 高さ五尺廻り云々祭礼の砌御供物を献祭之」とあり、現に毎年この祭典を斎行している。因みに松江城の「クサビ」及び松江大橋の最初の板はみな幡屋神社有林から搬出されている。

幡屋神社

はたやじんじゃ

境内社
西上稲荷神社
鎮座地
島根県雲南市大東町幡屋1052番地1
御祭神
幡屋神社:瓊々藝尊、武内宿禰神
西上稲荷神社:稲倉魂命、大国主神
例祭日
例祭11月15日
Map
島根県雲南市大東町幡屋1052番地1