くにたまの会

由緒・沿革

赤塚荒神社の境内社である御碕神社は、弘長年間(1261~64)、赤塚の開発のため、
人々が居住した際に創建されたと伝えられている。地元旧家の『手銭家文書』によれば、明和4年(1767)5月18日、赤塚集落と白枝山の境の海岸部に、御碕神社が新築されたことが記されている。
明治6年(1873)、廃社の命令があり、明治12年に復旧し、明治41年に赤塚荒神社境内へ移され現在に至る。祭神については、現在では「日御碕大神」とされているが、一方で俵屋文書の『日々記事簿』の中に、明治28年の古社寺規則の制に伴う村役場の調査の記事があり、その中では4柱の祭神名が掲載されている。

特殊神事

毎年5月1日の御碕神社例祭には、神社の前に「惣産土大神」の吉兆幡が立てられ、祭事の終わりには赤塚佐儀利保存会による佐儀利(神楽囃子)が奉納される。

地域の伝統行事

吉兆幡は吉兆神事に立てられる幟幡で、奈良時代には「年神」と言われ祭られていたものが、中世末期から近世初頭にかけて「歳神」すなわち「歳徳神」として祭るようになったと言われている。
太古からの「年神」と中世以来の「歳徳神」が合体して、室町時代以降、1月14日から15日の小正月の祭り行事として近世末期まで続いたもので、「歳徳神信仰」が盛んになったのは、恐らく近世になってからのことで、吉兆幡を立てて華やかに巡幸するようになったのは、江戸時代中期の頃になってからと考えられている。
形式としては、屋台の上に柱を立て、高く聳やかし、天から降りてくる正月の神の目を引くようにできている。
神を引き寄せる仕掛けが背の高い「吉兆幡」で、歳徳神が降りてくるための目印として、幡の先端に鮮やかな縁起の良い宝珠・扇・鉾・御幣取り付け、また、飾り台の装飾は神座を示すしつらえであるから、古来、青柴・松・竹などで囲い、この森の中に神が座しますしるしであるとして、神の森を具現していると言われている。巡幸は、先ず御神酒で清めた後、頭屋を中心にして全員が「吉兆さん」の前にひざまづき、神謡を朗唱して神の降臨を願う。「神謡」は、鎮魂行事の詞であり、いわば祝詞で、神と人とが和合する神遊びの行事である。「氏神」と「歳徳神」の心霊が「吉兆さん」に鎮座すると、愈々吉兆さんのお立ちとなり、出雲大社・國造家を巡幸し「神謡」をもって、新春のタマツケの行事を行い、巡幸がおわれば、最初と同様に 「吉兆さん」の前に全員がひざまづき、最後の「神謡」を朗唱し、神のお帰りを願い神事が終る。
赤塚神楽(佐儀利)の誕生は定かではないが、350年から400年くらい前、出雲神楽が盛んであった頃、大原神楽の流れを汲んで誕生したのではないかと言われている。

赤塚荒神社

あかつかこうじんじゃ

境内社
御碕神社
みさきじんじゃ
鎮座地
島根県出雲市大社町大字杵築西1894
御祭神
・赤塚荒神社:須佐之男命
・御碕神社:大己貴命・和田津見命・事代主命・少名比古那命
例祭日
・赤塚荒神社 毎年10月25日
・御碕神社 毎年5月1日
Map
島根県出雲市大社町大字杵築西1894