由緒・沿革
この地は、出雲國風土記に「拝志ノ郷」といわれ、天下造り坐し大名持命越の国に向わんとしての途次、この郷の樹木の繁茂しているのを見そなわして、わが心の「波夜志なり」と詔い、この地の名称となった。この地に神殿の斎き奉られてあり、風土記に「正倉」ありと記されてあるのは当社の旧地であるといわれている。
当社は元宍道湖畔に鎮座せられてあったが、火災焼失し、現在の地に移転造営せられたものである。
また、当社は弘安の昔元のわが筑紫の灘に来襲した時、神風を起した功をもって、正応6年3月20日の官符により「風ノ宮」の宮号を奉られたという。
世俗に疫病の類を風の病といい、疫病、風邪の鎮護退散の神として多くの信仰を集めている。
なお、当社元宮の地に鎮座の頃、時の出雲國造が当社の神霊の加護により生命を拾われた謝恩として、國造に就任の年の11月寅の日に参拝し、祝詞、幣帛を献じ祭典を執り行い、その翌年からは御初穂を献じて謝恩祭を行われたという。