由緒・沿革
大原神社は「出雲風土記」所載の神社であって、成務天皇五年本町上阿井雲崎に歓請し、和銅2年本町上阿井神田へ移転、更に万冶3年10月17日阿井川西岸の現在地の大森に移転した。国主、藩主の崇敬篤く、天文20年仁多郡主三沢為清が崇敬して社殿を造営。明治5年1月郷社に列せられた。
(島根県神社庁編 神国島根による)
玉比女命について
出雲国風土記仁多郡の恋山(シタヒヤマ)の条に、「郡家の正南二十三里なり。古老の伝へに伝へに伝へくら、和邇(ワニ)、阿伊(アイノ)村に座(マ)す神、玉比女命を恋(シタ)ひて上(ノボ)り到(キ)ぬ。爾(ソノ)時、玉日女命、石似て川を塞(サ)へまししかば、会はえずして恋(シタ)ひき故(カ)れ恋山(シタヒヤマ)と云ふ」とあって、恋山は郡家の西南23里の所にある。古事に明るい老人の伝えによれば、昔、鰐が阿伊の集落にいらっしゃた玉日女命を恋い募って、日本海から斐伊川を上ってこの山の麓にきた。その時、玉日女命は大石をもって川を塞いでしまわれたので、鰐は女神に逢うことができず、ひとり恋い慕うばかりであった。このことによってこの山を恋山(シタヒヤマ)というのである。ちなみに、もともと大原神社は、玉日女命だけを祀っていました。その昔、玉日女命が長者原に降りてこられた時、鬼が器量の良い姫を慕って下流から追っかけてきたといいます。姫は鬼舌振まで逃げ、そこで岩をもって壁をして塞ぎました。その壁があまりにも高いので、鬼は恐がって舌を震わせたといいます。無事助かった玉日女命は、本命であった大名牟遅命を迎えられ大原神社はこのことから2柱の神様が祀られるようになったそうです。
イザナミノミコトが宿る岩穴について
上阿井に「イザナミ」というちょっと珍しい名前の集落があります。伝えによるとイザナミノミコトが降り立ったところなので、そう呼ばれるようになったといわれています。そしてイザナミノミコトが一夜を過ごした(一説には亡くなった)ところとされる広さ十畳ぐらいある洞窟があり、古くから信仰の地として今でも地域の人たちで大切にお祭りがされています。また、イザナミノミコトが葬られた地は、広島県の比婆山御陵など全国に諸説ありますが、猿政山であったとする説もあります。猿政山は、出雲風土記に登場する御坂山とされ「山に神の御門あり 故、御坂と云う」と記されています。このことから、風土記時代には既に、猿政山は神様の山とされていたことがうかがい知れます