由緒・沿革
当神社は、播磨風土記によると、人皇三十三代(587~592)崇峻天皇の
御宇元年戌甲九月九日の創建で、許曽社にして、延喜式神名帳に
「美嚢郡(ミナギノコオリ)一座 御坂社」とある。その延喜式内神
社当社とされている。
当社はもと志染圧中村に鎮座の処、天正年間、羽柴秀吉が中国征伐の途中、
三木の別所長治の居城か釜山攻めを行い、その際、兵火にかかり消失し、その後、
慶長十一年卯月三日に淡河川、山田川の合流する志染町御坂の現在の地へ遷座される。明治
六年郷社に列せられ、大正三年四月、神饌幣帛供進指定神社に遇せられて、祈年祭、例祭、祈年
祭には、郡長(村長)が幣帛供進使に当たり随員を伴い、衣冠装束を
着して幣帛を供進していたが、戦後はその制も無くなり、現在は宗教
法人による護持運営の神社となる。
特殊神事
・御弓祭(おゆみさい) 二月十一日
・御田祭(おんださい) 五月五日以降の最初の日曜
地域の伝統行事
伽耶院(がやいん)採燈大護摩(さいとうだいごま) 十月十日