くにたまの会

由緒・沿革

【夜比良神社の伝承】
夜比良神社の創建は、1200年以前といわれています。
神社に伝わる伝承によれば、出雲国を開拓された大神は、因幡国を経て播磨国に入られ、伊和神社(播磨国一宮:現在、宍粟市一宮町)に鎮座されたのち、揖保川に沿って南下され、粒丘に足を留められ、この揖保(粒)郡を開拓・平定され、夜比良神社に鎮座されました。この故事により、播磨国の一の宮である伊和神社を「北方殿」 と呼ぶのに対し、揖保川流域の南(下揖保庄)をお護りする夜比良神社を「南方殿」と呼ぶようになったという。また、一説には「おおむかし、一晩のうちに権現山(ごんげんやま)の西北の揖保川に突き出ている角にあった大きな岩の上に八尋もある白い旗が立っていました。村人がふしぎに思って見に行くと“われは、伊和の大神なり”という大きな声がきこえました。村の人たちは、この神さまを大切におもい、敬い、おまつりをしました。夜比良神社の名前はこれからはじまったとも伝えられています。
【夜比良神社と播磨国風土記】
「播磨国風土記」の「粒里」の条に「葦原志許乎命(あしはらしこをのみこと)」(大国主命の別名)と渡来の神である天日槍命(あめのひぼこのみこと)の土地占有の記事がみられます。ここには揖保郡の地名「粒山」があり、この「粒丘」にある小石は「比(ひと)しく(よ)能く(いひほ)粒に似たり」と説明され、この山の名前から揖保里と呼ばれるようになったという地名の起源が述べられています。この「粒丘」が、先述の権現山(通称:中臣山)に比定されています。
風土記には「神山」の名が見られます。この山には「石神」がおられ、そのために「神山」と名付けられたという説明が加えられています。この「「神山」は、伊和の大神が立たれた夜比良神社北の権現山西の巨石(磐座)であったのではないかと考えられます。右の写真は、文禄4年(1593)の絵図です。そこには、「こんけん山」の名が見られます。伊和大神が立たれた場所の地名として相応しいと言えます。
【夜比良の渡し】
夜比良神社の西を流れる揖保川を渡るために渡し場があり「夜比良の渡し」と呼ばれ、鎌倉時代には通じていたと言われ、神社へ続く道を「やひら道」と呼んでいました。昭和の中頃までは、神社へお参りするために渡し舟が使われていたと言います。
江戸時代の地誌『播州名所巡覧図絵』(文化元年)や『龍野志』(元文5)に記述があり、昔から東西交通の要衝であったことがわかります。また、中世には、播磨国の豪族赤松氏の尊崇をあつめ、「神式は赤松政村これを定む」と伝えられ、次の歌が伝えられています。
やひら手を 取りにし神も あらましを きねか鼓の 音は絶せぬ 
赤松広秀(鶏籠山上にあった古龍野城の城主)
明治維新以前は、たつの市揖保川町の十六か村が氏子域でしたが,現在は、五か村(揖保上・揖保中・今市・正條・新在家)となっています。また記録の上では、八枚(八尋:やひろ)社刀踊り等の故事があったと言われていますが、今では途絶えてしまいました。
【奉納行事】
神社の祭礼は、氏子5地区の村々が輪番制で執り行います。年番に当たった村は、それぞれ趣向を凝らした催し物を奉納します。
そのなかで、獅子舞・和太鼓・氏子総踊り(伊勢音頭・播州音頭)は、毎年奉納されます。

地域の伝統行事

“甘酒呑んで来い、寿司食って来い”
獅子舞・和太鼓・伊勢音頭・播州音頭

夜比良神社

やひらじんじゃ

鎮座地
兵庫県たつの市揖保町揖保上391
御祭神
国作大己貴命
例祭日
春季例祭:4月第1日曜日
(旧:4月12、13日) 
秋季例祭:10月体育の日の前日
(旧:10月18,19日)
交通
  • JR山陽本線たつの駅
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兵庫県たつの市揖保町揖保上391