由緒・沿革
欽明天皇25年(564)6月11日に影向あり、飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられています。
五十猛命(射楯の神)をいつ合座したのかについては不明。
延喜式神明帳には「射楯兵主神社二座」とあり、式内社として少なくとも9世紀後半には合座されていました。
安徳天皇養和元年(1181)には、播磨国内の大小明神百七十四座の神々を合わせ祀って「播磨国総社」と称し、「播磨国総鎮守の神社」として広く知られるようになりました。
歴代の守護職・黒田官兵衛や豊臣秀吉・江戸時代の城主からも「家の氏宮」・「姫路城鎮護の社」として篤い崇敬を仰いで参りました。
特殊神事
「丁(てい)卯(ぼう)の年、60年に一度齋行される「一ツ山大祭」20年に一度齋行される 「三ツ山大祭」があり、「山」が祭りの原初的な「置山」であることが珍しいとされていて
、いずれも元は臨時祭でした。
一つの山の大きさは直径10m、高さ18mあります。
乱を鎮めるための臨時祈願祭が、人に罹る災い(八難苦厄)を祓い、平安を祈る祭りへ変遷していきました。
一週間行われる祭礼の中で、様々な時代の神事を一度に行う「五種神事」は文化的にも価値の高いものです。
その他
神使は「みみづく」(本来みみずくと表記しますが、当社ではみみづくと伝わっています)。 境内には「撫でみみづく」があり、「知恵の象徴」でもあるこの銅像を撫でて参拝する風
景がみられます。
黒田官兵衛が黒田家の旗印を定めて、当社にて一週間祈願してから戦へ赴いてから「負けなし」となり、縁起のよい旗として九州へ移ってからも黒田家より感謝のお供えが絶えませんで
した。