由緒・沿革
桓武天皇の平安建都以前から、疫癘を鎮めるため疫神を祀った社があったといわれる。
「称徳天皇の宝亀元年(七七〇)六月、朝廷では京師四隅、幾内の十堺に疫神を祀らしめた」(続日本書記)とあるように、往古から疫病や災厄がおこると疫神を祀ることが習わしとなっていたためである。
京の都の賑わいが増していく一方、疫病や災厄もしばしおこり、人心は安らかでなかった。このため御霊を祀り疫災を鎮める「御霊会」が神泉苑、上・下御霊神社をはじめ、八坂神社の祇園会(祇園祭)など都各地で盛んに営まれる。その一つとして、この紫野の地の疫神を鎮める「紫野御霊会」も営まれた。
すなわち、一条天皇御代の正暦五年(九九四)に疫病は都で猖獗をきわめ、「四月頃には洛中洛外に病者の行倒れが多く、六月になると洛中を疫神が横行するという流言で家々は門戸を閉して通行人の影も見られなくなった・・・」(本朝世紀)と伝えられるほどであった。
正暦五年六月廿七日丁未、為二疫神一修二御霊会一、木工寮修理職造二神輿二基一、安二置北野船岡上一、屈レ僧令レ行二仁王経之講説一、城中之人招二伶人一奏二音楽一、都人士女賚二持幣帛一不レ知二幾千萬人一、礼了送二難波海一此非二朝議、一起レ自二巷説一(日本記畧)と誌され、これが「紫野御霊会」であり、この祭祀を以て今宮社の創祀とする。
京中の民衆は鎮疫を願い朝議による祭礼列に供奉したといわれる。紫野の地に疫神信仰がしっかりと定着していたことが伺える。
この紫野御霊会から数年を経て長保三年(一〇〇一)に、またも疫病が流行り人々を悩ませた。そこで再びこの地で紫野御霊会を営み、新たに神殿三宇・瑞垣および神輿を造営し、三柱の神をお祀り申し上げ、疫社(えやみのやしろ)に対してこれを今宮と号し、今に至る。
特殊神事
今宮祭
「今宮祭」は平安の昔の「紫野御霊会」に始まり朝野の信仰集め、中世まで永らく官祭として営まれました。近衛天皇の久寿元年のころ、政情も穏やかでないため祭礼自体の規制もあり徐々に衰え、やがて中絶していく。
その後百年余りを経て正元元年のころより、再び復活をみている。
そして以後、室町時代を通じて営まれていた。しかし応仁の乱、戦国の兵乱後は神社な荒廃とともに「今宮祭」も再び衰退し、近世に入って「西陣」の台頭元禄期に五代将軍徳川綱吉公の生母桂昌院の肝入によって再び往昔の華やかさと賑わいを取り戻した。
こうして「今宮祭」は今もなお、平安期の御霊信仰から山の神を町へとお迎えするという、西陣の氏神信仰としながら営まれ続けている。
そこには、”紫野の疫神さんに詣でる”という本質が連綿と伝承されているからである。
やすらい祭
久寿元年四月、近日京中児女、備二風流一調二鼓笛一、参二紫野社一、世號二之夜須礼一、有レ勅禁止(百錬抄)平安末期のことである。風流を凝らし、紫野社へ詣でるやすらいは、その行装が華美に過ぎたのか勅命によって禁止された。当時は「紫野社」として呼ばれている。
「やすらい」とは、「花鎮めの祭」である。
「安良(やすら)居(い)」、「夜須(やす)礼(らい)」とも記される。
現在では陽春開花爛漫の四月第二日曜日におこなわれる。
「行列」の先頭は頂(てっぺん)と云い裃を着用し手には杖をもった長老が担う。
続いて「今宮やすらい」旗がつく。幸鉾、御幣持ち、練り衆の指揮をとる督殿(こうどの)、羯(かん)鼓(こ)(小鬼)、大鬼、花傘、音頭とり、囃子方、と続く。羯鼓は胸につけた小鼓を打ち、緋の大袖様をまとった赤毛黒毛の大鬼が、太鼓や鉦を打ちながら踊る。祭の中心は「花傘」である。
「風流傘」とも云、径六尺位の大傘に緋の帽(もっ)額(こう)をかけた錦(きぬ)蓋(かさ)の上に若松、桜、柳、山吹、椿を挿して飾る。
この傘の中に入ると厄をのがれ、健康で過ごせると云われる。
「花傘」は、まさに「やすらい祭」の象徴である。
祭礼日は町の摠堂に集まり、「練り衆」を整え街々を練りながら当社へむかう。春の精にあおられ陽気の中で飛散するという疫神。
“やすらい花や”と囃子や歌舞によって疫神を追い立て、風流傘へと誘い、紫野社へと送り込む。花傘に宿った疫神は、疫社へと鎮まるのである。
そしてこの一年の無病息災が祈られる。
地域の伝統行事
お千度
千度詣や千度参りとも云われる。
毎年の春、秋の頃に氏子地域の人々が町内ごとに家内安全の参拝に訪れる。拝所でお参りをして「お千度詣でに来ました」と、神さまにお伝えしてから拝殿南側に集まると、それぞれ箱の中から竹串を取り分けて持ち、順次右廻りに進みはじめる。
拝殿の四隅(隅繋木)を竹串でコンコン突きながら一周廻る毎に竹串を箱に中に入れていき、竹串の数だけ廻る。はじめと終わりに空廻りと云って更に三回廻ることもある。
皆で声を掛けあい合わせて千度廻ったところで、揃って御本殿前の拝所でもう一度お参りしてお礼を申し上げ、町内の無事安全が祈願される。
また、御本殿でお参りされた後、若宮の小拝殿を同様に廻ったと伝えられている。
町内の人々が集い、皆で神社に詣でる。元気な子供たちは、先を競って竹串をほうり込み大人たちを追い越していく姿も伺え、地域性が強く感じられる行事である。