由緒・沿革
社伝によると、天元・永観(978~985)の頃、三河国司として赴任した大江定基卿が
三河守としての在任に際して、三河国の安泰を祈念して、出雲国築築大社(出雲大社)より
大国主命(大貴己命)を勧請し、併わせて三河国中の諸社を勧請し社殿を建立したと伝わる。
また、当社所蔵の大般若経応永7年(1400)の裏紙には、奉再興延暦庚辰とあり、
定基卿の出雲より勧請以前から何らか堂宇があったものと推測される。
江戸末期の慶応元年5月8日には、第十四代将軍徳川家茂公が長州征伐に際し当社に戦勝
祈願に立ち寄られ、その際に奉納をされた短刀が社宝として伝わる。
特殊神事
大社神社夏季臨時大祭(国府祭) 7月最終土曜日、日曜日
それまで6月27、28日を祭日として国府町内上町天王社を往来する雨乞いの祭りを
明治2年維新を記念して新しい時代の祭りを作る為、上町天王社を大社末社として、大社神社
の祭礼として国府祭が始められた。明治の初期には神興の前に山車一台、その前に盆天四代、
巫女舞各町二人、獅子舞三人から始まり、歌舞伎は芝居として大社境内で実際に演じられてい
たようである。
明治10年頃、上中下南田の各町が山車を持つようになり、手筒煙火の奉納が行われ、
歌舞伎は辻々にて芝居を行った。
昭和20年迄は山車の運行は二日間行われ、7月26,27日の日決めで行われた。
明治30年代に7月最終日曜日を中心として、金土日の混在の祭りの型となり近日に至っている。
〔出典 明治二年六月二十七日 『御祭禮竒録帳』〕
地域の伝統行事
蒲郡市八百富神社式年総参り
昔、竹島の弁天社及びそのお使いである、白蛇(宇賀神)様が津波によって竹島より
流されて、国府町に漂着したため、国府村で弁天様と宇賀神様をお祭りしていた。
元禄の頃、国府村の庄屋・神主、また竹島庄屋・神主が時を同じくして、竹島の弁天様と
宇賀神様共に、「暫くの間国府の地に留まっていたが、海難の心も無くなったので、元の竹島に
還りたい」との夢を見た為、両村間で話し合い、弁天様・宇賀神様に元の竹島にお還り頂こうと
いう事になり、国府の村から竹島まで、大八車で御酒・餅等を沢山積んで送り届けた。
そのことから、現在も国府の大社神社では、己年亥年の八百富神社式年大祭に併せて、往事の
故事に倣った事を執り行い、町民こぞって竹島に参拝する。