由緒・沿革
創立年代は不詳であるが、伝によれば景行天皇の御代、武内宿禰が北陸巡察の途上、当地に於いて天神地祇の霊威を感得し、斎庭を設けたのが起源とも云う。仁明天皇の御代、付近を流れる雄神川(庄川)の水源が加賀の白山であることから白山信仰を受容し、白山本宮(白山比咩神社)より御分霊を勧請。以来白山社・白山宮・白山権現などと称される。鎌倉期に越中守護・名越遠江守の祈願所となり社殿が造営され、越中国内の神々を一堂に祀る惣社に准ぜられて隆盛を誇るも、元弘三年(1333)、名越氏滅亡の争乱により殿宇は悉く焼失・烏有に帰した。その後暦応元年(1338)4月26日に再興が成る。江戸期には加賀藩主・前田利長(二代)や重教(十代)が鷹狩りの際に参拝し、特に利長は白檮(かしのき)を植樹するなど篤く崇敬した。民衆間においても五穀豊穣の霊験ありとして近郷60数ヶ村の祈願を受ける名社であった。
鎮座地名の「二塚」は『太平記』にも記載があり、中世越後国の武士・岩本兼佐が当社境内に黄金の鶏・蚕(繭)を埋納した塚に由来するとも、武内宿禰の孫・平群大臣の墓に起因するとも云う。いずれにしても当社が村名の起源に深く関わっているのは事実である。
境内には摂社・神明社の他、勤王の武士・川上三六の名を刻銘した玉垣残欠などがある。
特殊神事
火鎮祭(3月8日)・用水々神祭(7月13日)は天正年間には既に行われていた、由緒ある祭儀である。
地域の伝統行事
秋季例祭に獅子舞奉納あり。