由緒・沿革
旧記文献等の散逸消失により詳しくは知り得ないが、現在の記録によると最も早い年号は建武2年(1335年)で、その頃の記録によると、当神社は、越中国新川郡針原大野に鎮座、広壮な社殿・社地を備えていた。その後、戦乱を避けて御神体を奉じて、上新川郡大山町隠土、上新川郡中野村(現在の富山市西中野)、婦負郡藤井村(現在の富山城跡)と御遷座されたと伝える。天正13年前田利長が富山城に入城し、以後富山前田家の産土社とせられた。毎年の例祭に神輿が寄進され、城下を御輿渡御されることになった。承応2年2代藩主正甫公は、社殿の造替えを命じられ、同5年漸く完成し遷座祭が斎行され、神輿二基も寄進された。以後代々の藩主の崇敬篤く種々寄進があり、これが今の賑やかな山王まつりの始まりとされる。明治6年8月郷社に列し、明治8年9月天照大御神を奉斎の北神明社、並びに豊受大御神を奉斎の中神明社を当社相殿として合祀した。明治32年当神社境内に新県庁建設と旧富山城跡の公園化計画に際し、当神社が応安の昔、同地に鎮座せられた縁故をもって御奉遷され8月2日県社に昇格された。ところが、8月12日市内全域大火(俗に熊安焼けという)にあい炎上、御神体の御安泰を得たほかは全く廃燼したため、同34年本殿・拝殿を現在の山王町に御復座された。昭和20年8月1日戦災により全社殿その他建物の全てを消失したが、御神体は被災を免れた。戦後は被災にあった本殿・拝殿・社務所等が復興され、神域は見違えるように旧に勝る威容を誇るに至った。
地域の伝統行事
例祭の5月31日・6月1日には氏子五十カ町を獅子舞・神輿が渡御し、神社境内周辺道路には露店が多い年で1000件以上、現在でも700件ほど軒を連ね「山王まつり」として県内最大の人出で市民県民の楽しみになっている。