由緒・沿革
明治27年に開拓の始まった比布村(現在は比布町)では、開墾の進捗と共に水田が耕作されるようになっていた。大正2年は大凶作となり、翌年の種籾も他町から買い求めなくてはならないほどの状況であった。ところがその種籾の品質も悪く、更に当時は直播でもあった為、発芽は5割程度にとどまった。その上、稲作の病害虫であるドロット虫の食害が甚大で、水田農家の困難は言語に絶した。このドロット虫の被害を除きたいとの農民の念願は実に大なるものがあった。
当時、旭川市にあった出雲教会では病害虫防除の「虫祭り」が執り行われており、この祭典に参列し、お守りを受けて水田に祀る人は比布村内に多くあり、大正4年には有志が相計り、出雲教会より御分霊をお受けして高橋権吉氏宅に奉齋し、以後は毎年信者が高橋宅に集まって祭儀を行っていた。
やがて信者も増加するに従って社殿の建立が発議され、篤信者からの約1反歩の土地の寄付もあり、大正6年に現在地に社殿の建立がなされた。
その後は東園地区の住民が主体となって護持運営がなされるようになっていたが、大東亜戦争後には神社制度の改変に応じて、境内地は比布神社の飛び地境内地として登記され、それに伴い出雲神社は比布神社の境外社となった。
現在の比布町、そして東園地区も主産業は農業であり、離農が進み、人口の減少等も進んでいるが、ご創祀当時からの信仰は代々受け継がれ、篤信の人々によって社殿の改修、屋根葺き替え等も行われ現在に至っている。
平成26年には社殿建立から数えて御創祀100年の年を迎え、これを記念、奉祝して社号標も立派に建立されている。