由緒・沿革
今を去る大同二年(807年)現広島市佐伯区湯来町和田の和田感応山麓・慶応蔵院境内より湯が湧出したという。
その後絶えることなく湯は湧き出したが、1700年代に入り特に湯の湧き出量が豊になったことで宝永四年(1707年)に地域の祠の参銭・散銭・寄銀で御社御柱湯の山明神・湯屋を建立。
寛延元年(1748年)入湯者が増すことで地域は、この年六月湯の山明神社殿の建立を計画、八月に完成。祭事を執行。
年末迄には湯壷・湯屋が相整う。
この事実を広島藩留守居役は江戸表へ報告する。
この寛延二年(1749年)十月、広島藩は、湯の山神社・拝殿・湯屋の再建を藩事業で開始する。
寛延三年正月、神社再建上棟落成。この年 九月七日に「湯の山厳水魂明神霊璽遷座祭」が出雲大社神官二名により厳粛に執行。
その祭に奏上された祝詞(御壽詞)は、一部しか無く判読も難しい状態に痛んでいるが、社宝として現存している。
宝歴元年(1751年)には藩主・吉長公が社参入する。
宝歴二年(1752年)には和田村御本帳 湯之山明神社の明細が記録される。
文政八年(1825年)芸藩通志に「湯之山明神社・霊泉」として紹介される。
時代は下がって、昭和二十六年(1951年)ルース台風にて神社は多大の被害を被ったが氏子の絶大な努力によって修復をされた。
昭和三十三年(1958年)には広島県史跡の指定を受けるとともに昭和四十九年(1974年)には国の重要有形民族文化財の指定を受ける。
のち平成十一年(1999年)には湯ノ山明神社旧湯治場建立二百五十年祭を賑やかに執行。現在は広島市・地域の協力により発展の一途に至っている。