由緒・沿革
貞観十八(876)年春に勅使として従五位上出羽守藤原興世は感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。その地は昔、牛頭天王に縁ある土地である。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と言われて消えられました。興世は夢とは思わず神意なりと朝廷に奏上し、勅命により直ちに此の地に社を建てて御神霊をお祀りしました。
また一説には、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。
特殊神事
体育の日前々日より10月15日の例祭までを粟田祭と称します。体育の日前夜には「夜渡り神事」が行われ、御神宝の阿古陀鉾と地蔵鉾が氏子町内を巡行します。その際知恩院前の瓜生石にて知恩院の僧侶と共に「れいけん祭」を齋行致します。近年巡行においては、大きな灯篭の山車である「粟田大燈呂」が見物となっています。
地域の伝統行事
体育の日の神幸祭では神輿渡御に先立ち、現在6基の剣鉾が神幸路を清めて廻ります。長い棹の先に剣があり、その周りには意匠乎凝らした錺金具があり、澄んだ音色を放つりんと呼ばれる鈴が付いています。鉾差しと呼ばれる担い手が腰に重さ40キロにもなるその鉾を差し、剣先をしならせ鈴を鳴らして進みます。その鉾を差す技術は大層難しく、氏子町内では平成八年に剣鉾奉賛会を結成し、その技術の習得と継承に取り組んでいます。