由緒・沿革
小和田(旧高島村)の氏神で、船戸湛神主により奉祀されていた。古くは諏訪湖に突き出た高島に祀られていたが、天正年間豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉が諏訪を治め、高島に浮城を築くにあたり、居住する氏子とともに神社は現在地に遷された。
古来、海上守護神として崇敬され、北條高時の下知状を始め武田信玄の寄進状、武田勝頼の造宮張、松平忠輝の武具などの寄進がある。慶長年間、諏訪頼忠・頼水父子が旧頼の地諏訪を拝領して再び領主となり、以来、八劔神社は高島藩累代の産土神、また居城鎮護の神として格別に崇敬された。
刀剣、絵馬、相撲人形、寛文4年(1664)三代藩主忠晴が画工に命じて作らせたと伝わる『御枕屏風』などの宝物がある。
社殿は本殿、権殿の二殿があり、寅申の御柱祭に造営と遷宮を行う。御柱の用材は江戸時代までは藩主より寄進され、ご遷宮に際しても金襴の御霊?覆いと御幌が寄進された。
特殊神事
『御渡拝観』 諏訪市無形文化財(昭和53年)
零下十度の日が三、四日続くと諏訪湖は全面結氷し、やがて大音響とともに氷の亀裂が盛り上がり湖上を貫く。これを御渡りといい諏訪の七不思議の随一とされる。古代より諏訪明神がお渡りになった跡とであると信仰され、御渡りができた後、氷上を人が渡ってもいいとされた。
平安時代末頃の歌人、源朝臣顕仲は
「諏訪の海の氷の上のかよひちは 神のわたりてとくるなりけり」と詠む。
御渡りの記録は応永四年(1397)が最も古く、神社には天和三年(1683)から明治五年までの記録『御渡帳』(諏訪市有形文化財 昭和49年)と、明治6年以降今日に至るまで『湖上御渡注進録』が伝わる。
天和以降、御渡り拝観は高島村の役目で、七日間(現在は3日間)精進潔斎した拝み手が湖岸に赴き、下座(くだりまし)と上座(あがりまし)の地点を確認し、記録に留めるとともに諏訪神社上社の茅野外記太夫の報告した。茅野家では書式を改めて諏訪大祝に届け出て、大祝は幕府に注進することを例とした。
現在は諏訪大社から宮内庁に言上げ、気象庁に報告している。『御渡帳』には元禄年間以降、農作物の作柄、米の値段、大雨や干ばつなどの気候、地震や噴火などの自然災害などが記されており、当時の人々の暮らしを物語る。
『式年御柱祭』
寅・申年に社殿の建替とご遷宮、四本の御柱の曳き建てを行う。明治維新以後、藩主が東京に移住したことにより、造営は本殿・権殿の千木のみ新調することとなり、その間仮遷座祭葺合祭を行い、建御柱が済んでから正遷座祭を行う。
江戸時代、御柱の長さは諏訪神社の壱之柱の五丈五尺にたいして八剱神社は五丈で、郡内の他の神社はそれより三尺落ちであった。建御柱の祭、その頂上を三角錐状(諏訪神社・八剱神社以外は四角)に整えることを冠落しという。
戦前までは「ご遷宮のお飾り」と称して、氏子中各区が競って人形飾り物を作り奉祝した。