由緒・沿革
「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。
そして、里宮に大神が鎮まるに至った経緯を、「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」(天正2年)は次の様に伝えている。
文武天皇の大宝年間に天皇の病を鎮める為、草鹿砥公宣卿が勅使として 「煙巌山」に使わされた。公宣卿は三河の山中において道に迷うが、この時出現した老翁の導きにより無事祈願を果たし、天皇の病も平癒された。天皇はこの老翁に礼を尽くすため、再度この地に勅使を使わされた。 公宣卿は再び三河国本茂山に入って老翁と面会し、その望みにより山麓に宮居を定めることとなった。その時老翁は衣の袖を抜き取り、宝川の清流に投じたが、公宣卿はこれを追って山を下り、山麓辰巳の方の岸辺に留まった袖を取り上げて、七重の棚を作り七重の注連縄を引廻らして斎き祀ったのである。
古くから朝廷の崇敬篤く、文徳天皇嘉祥三年に従五位下とあり、順次神階を進め、貞観18年には従四位上に至った。こうして平安時代には、「延喜式内社」に列せられ、次いで三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となったのである。
その後江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、文政10年に正一位が授けられ、また明治4年には国幣小社筆頭に列せられた。
特殊神事
(1)1月3日午後2時半 田遊祭
五穀豊穣を祈る予祝神事で、斎庭に榊の葉を敷き詰めて田圃に見做し、田打ちから稲の収穫までの行事を、氏子扮する田人や、代官が面白おかしく演ずる。
(2)1月6日午後1時 宝印祭
参拝者に、厄難消除・無病息災を叶える神社秘伝の宝印が授けられる。
(3)1月15日午前8時 粥占祭
15日早朝神水にて粥を炊き上げ、これへ農産物・海産物の名を印した竹の管27本を混ぜて攪拌する。この後宮司は各々の竹の管につまった粥の量を卜定し、その年の天候や作物の豊凶を占う。
(4)2月7日午後6時 火舞祭
里宮に古くより伝わる火災疫病除けの特殊神事で、古式のままに鑚りだした浄火を松明に移し、巫女が右手に松明、左手に鈴を振りつつ静かに歩く。
(5)5月4日午後4時 流鏑馬式
12頭の馬に少年が乗り、右手に鞭、左手に五色の布引をなびかせ、手離しで疾走する姿は勇壮華麗である。
地域の伝統行事
笹踊り(豊川市内各所)
手筒花火(豊川市・豊橋市各所)
田原凧(田原市)など