由緒・沿革
社伝によると鷹狩りに出かけた忠興公が、小さな祠である祇園社の御神体を見ようと杖で開けようとした所、中から一羽の鷹が飛び出し忠興公の目を蹴りました。失明同然になった忠興公は祇園の神様の神罰だと考え、その非礼をお詫びするべく荘厳な社殿を立てました。その後、忠興公の目も平癒したと伝えられています。
時代が移り変わっても、この祈りが変わることなく、小倉の人々は親しみを込めて「祇園さん」と呼び今日に至っています。
特殊神事
まわり祇園(7月の第3土曜日を含む<金・土・日>)
・江戸時代には、神山に御分霊を御遷しし、威儀物や御供を従え町内より様々な出し物を出して行幸し、小倉城内に入り殿様に高覧していました。このことを「まわり祇園」と呼びました。現在では町内ごとの山車等は出されてはいません。しかし、今日もなお祇園の神様の行幸に手を合わせる人で賑わいを見せています。
地域の伝統行事
小倉祇園太鼓
・『祇園会神事神山次第』には「1660年囃方清五郎が藩主の供をして江戸に上京し、山王神事の囃子を覚え、小倉に戻り、自分の子供らに教授した」とある。これが、今現在の祇園太鼓の起こりとされている。その後、明治以降に山車に据えつけた太鼓にて、両面打ちとして、チャンガラ(摺鉦)で調子をとるものとなって現在に至っています。映画「無法松の一生」でその名を知られるようになりました。