由緒・沿革
当社に伝わる「金屋子祭文雲州比田ノ伝」に依れば、金屋子神は、村人が雨乞いをしていたところへ雨と共に、播磨国岩鍋(兵庫県千草町岩野辺)に天降り、吾は金作りの金屋子神である、今よりあらゆる金器を作り、悪魔降伏、民安全、五穀豊饒のことを教えようと、かくして磐石をもって鍋を作り給うた。故にこの地を岩鍋という。だが、此処には住み給うべき山がなかった。そこで吾は西方を司る神なれば西方に赴かんとして、白鷺に乗って西国へ赴き、出雲の国能義郡黒田奥比田の山林に着き給い、桂の木に羽を休めておられるところ、たまたま狩に出ていた安部正重(宮司の祖先)が発見し、やがて神託により、長田兵部朝日長者なる者が宮居を建立し、神主に正重を任じ、神は自ら村下(技師長)となり給い、朝日長者の集めた炭と粉鉄(砂鉄)を吹き給へば、神通力の致すところ、鉄の涌くこと限りなし。とある。
古文書
①「鉄山秘書」天明4年、鳥取県の下原重仲著「日本庶民生活資料修成」十巻に搭載(三一書房)
②「金屋子縁起抄」文政8年、島根県の石田春律著
③「三國金山姫因縁」万延元年、岡山県の金城陽麟写「刀剣美術」第286号に搭載(日本美術刀剣保存協会)
「配祀神」大國主命について。
明治政府の指示により許可を経、明治40年7月5日、恵比須神社(御祭神大國主命・事代主神)(町地区に鎮座)を合祀した。(当時11社合祀)
町地区では、神社での祭典の外に、合祀後以来今でも地区に於いて昔どおりの御祭りを斎行しょうと三社祭(八幡宮・恵比須神社・諏訪神社)と称し、毎年7月中旬の日曜日に斎行している。