由緒・沿革
創立年代は詳らかでないが、六國史及び出雲國風土記所載の神社にして、亀嵩温泉の医薬の主護神として創建された神社である。
社名は「中湯野、西湯野、湯野の小川」など出雲國風土記関係や雲陽誌・出雲神社巡拝記・出雲国神社考にあるごとく、亀嵩温泉に関する地名から「湯野神社」となったものである。古文書・古記録・棟札によれば、温沼神・湯野社・大森大明神・湯野社大森大明神・大森社・亀嵩大社・中湯野村社とあり、又亀嵩の各部落にあった神社(村社)の総代神であったことは、棟札に総本願のほかに各部落の神社の氏子中より村本願がで、遷宮費もその全部落が負担していることが明記されており、又天保13年の祭礼神事當人組に「亀嵩大社」と記されていることからも、総氏神であったことを知ることができる。
宸旨をいただく祈願社であったことは、三代実録に清和天皇の貞観10年秋9月21日従五位下、同13年冬11月10日に従五位上を授けられていることで知ることができる。
当時新羅兵がしきりに来日したに対して、その鎮護を祈らせ給うた霊験によって授けられたものである。
社地は往古字「宮地」と称するところに出湯があって、その地に四間四方の壮大な宮殿があったのを、北條時頼の特命を以ってより以上の社殿を改建しようとして、約100m西の現社地に奉遷したのであるが、建立を果さずしてついに仮宮が本社となって現在にいたっている。
当社には正神主・権神主・下職・巫職が奉務し、又社地の南西に接して常連寺があってその僧とともに祭祀を掌どり、24斛4斗2升の社領があった。
106代正親天皇の頃と思われるが、正神主の千原某が神社領地を専らにしようとして権神主と常連寺を焚殺す。そのため天正の頃に現社家の祖先恩田大和正(職名祝宇衛門)が神主となって、新しく神社の寺となった青龍寺の僧とともに祭祀にあたった。
巫職は世襲にして八乙女舞を奉納していたことは出雲國風土記に記載されているが、その家系は中絶した。
文久辛酉の年になって、正神主恩田生男と青龍寺の僧寛開とが祭祀を争って、ついに青龍寺の僧は祭祀にあずからないこことなり、その後は正神主の家系が「新宮」と改姓して祭祀にあたっている。
下職は明治4年郷社に列せられるまで勤務し、仁多町下阿井の加納六大夫がその家系である。
天正8年己卯三沢の城主三沢少輔八郎為虎にいたるまで、三沢氏が大檀那となって修めて、当時の棟札には氏子や職人の氏名が全くなく、神主も三沢氏に仕えていたことは、天正2年12月8日に三沢左京亮為清より当時の神主恩田大和正が猪子狩りの手柄により土地を授けられていることからも知ることができる。三沢氏以前のことは判明しないが、三沢氏以後は氏子の修むるところとなっている。
享和元年辛酉日に亀嵩町が全焼し、その火がたまたま御修造中の工匠小屋に移り、本殿をはじめ全社殿を焼失するも玉殿は無事に奉遷した。
慶応3年丁卯12月晦日に正神主の家火災あり多数の文書や宝物も亦焼失した。
明治4年7月4日太政官達「郷社定制」により仝年12月12日付を以って郷社に列せらる。
明治39年勅令第96号に依り、明治41年1月5日島根県告示第361号を以って神饌幣帛を供進することを得べき神社と指定せらる。
明治41年7月20日村内字上分に鎮座春田神社・字梅木原鎮座鹿島神社・翌21日字西湯野鎮座星神社・字久比須鎮座久比須神社の各村社を、許可を得て合祀した。