由緒・沿革
【日御碕神社】
日沉宮 社伝に素盞鳴尊の御子神天葺根命、御崎浜に出ました時経島の百枝の松に瑞光輝き天照大御神の御神託あり、依って奉斎せり。
開化天皇2年島上に神殿を造営(出雲國風土記記載の百枝槐社)祭祀せるところ天歴2年村上天皇の勅命により現今の社地に神殿を造営御遷座致し以来現在に至る。
神の宮 社殿に素盞鳴尊、出雲国の国土経営を終えられた後根の国に渡り熊成峯に登り柏の葉をもって占をなし「吾が神魂は、この葉の止まる所に住まん」とてお投げになった。柏葉は遂には神社背後の「隠ヶ丘」に止った。依って天葺根命はこの地を素盞鳴尊の神魂の鎮まりますところとして奉斎する。(附近より柏葉の化石出現し神紋石と称す。而て神社の紋章の由来するところなり)安寧天皇13年勅命により神殿を現在地に造営奉遷す。
(出雲國風土記記載の美佐伎社)村上天皇天暦2年の勅により日沉宮と共に日御碕大神宮と称していたが明治維新後社格制定により国幣小社に列せられ日御碕神社と称す。
日御碕神社の御造営は上古以後徳川時代に到る迄20数度に及ぶが、いづれも勅命又は将軍下命によるもので、現在の社殿は寛永21年徳川三代将軍家光公の命によって造営されたもので社殿の構造は初期の権現造り両社御本殿の内陣の天井四壁の絵は狩野、土佐両家の画匠の筆になるもので華麗壮重を極め美事である。
社殿の全部と境内の石造建造物を含め昭和28年に国家重要文化財の指定をうける。