由緒・沿革
御祭神は、大国主命の別名 葦原醜男命と、その后神 須勢理姫命(須佐之男命の御子)の御夫妻二柱が主祭神であります。
当社の東南に山峡の谷川があり、その上流に太古の滝壺と思われる岩穴が五箇所あります。世にこれを岩坪と称し、須勢理姫命が生誕されたとき、この岩坪で産湯をつかわれたという伝説があります。
天平5年(733年)に編纂された出雲國風土記によれば、御祭神がこの岩坪の地に宮殿を建て仲睦まじくお暮しになっていた或る日、社前の渓流が岩苔の上をなめらかに流れるのをご覧になって「滑し磐石なるかも」と仰せられた。この「なめしいわ」が「なめさ」となり、この里を「滑狭郷」というようになったと記録されています。
御祭神の若かりし青春の一コマ、岩坪の地に咲くロマン………。「谷川のせせらぎ、岩の上の水、なめらかに流れゆくことよ」ということは、やすらぎの気持ちであり、いかにも平和的、抒情的で神代の大自然の静寂を思わせるものであります。これにより、当社は郷名と同じ那賣佐神社と称するのであります。
出雲國風土記より約200年後の「延喜式神名帳」には、神門郡二十七座の内に入り、神祇官に登載される、いわゆる「式内社」であります。又、享保年間の雲陽誌には、高倉明神とあり、高倉山に鎮座せられていることから通称「高倉さん」として親しまれています。明治5年、郷社に列せられました。
昭和の初期、不思議なことに社殿の内に飾ってあった神鏡に御神体が写るという評判が高くなり近郷近在の老若男女参拝ひきもきらず、門前市をなしたことがあります。